安達先生
ここへ書くのは,随分久しぶりですが,これからこのブログを再開したいと思います。
思い返してみれば,私は金石範文学について,たいしたことをこれまで書いてません。
というか書けなかった――それはまるで都合の悪いことでもあるように…です。
在日朝鮮人文学の金字塔といわれる『火山島』。その全てにおいて破格で型破りな存在にただただ驚き金石範文学の虜になった私は,この初めて見るお化けのような本を,文学の自由さを,そして可能性の高みを評する適切な言葉を探そうと,その周辺を少なからず読み出すようになりました。
これだけ何でも手に入る便利な社会なのだから,誰かが既に一読者のたわいもない気持ちを代弁しており,その言葉に私自身も充足するであろうと思ったのです。
昨今の反日問題を取り扱う文芸誌のエンドレスに続く言葉の洪水・掛け合いについては,後日書いてみたいと思うので譲るとして,同時代に生きてきた作家陣は,例えばこんな言葉を残してます。
この事変(四・三武装蜂起)について,私は朝鮮・韓国の友人たちと語ったことは一度もない。外国人としてのごく自然な節度としてそういうことを話題にしなかっただけである。(司馬遼太郎著『耽羅紀行』朝日文庫より)
「朝鮮の人たちに申し訳がない。どの面下げて韓国や朝鮮にいけるだろうか」が私の基本,それを固守してこれまで韓国にも朝鮮にも一歩も足を踏み入れていない。(井上ひさし『「申し訳ない」という問題』金石範全集II 月報より)
どれも,金石範文学を自分自身に引き寄せて評することを故意に避けているとしか思えないその言葉たちに大いに物足りなさを感じざるを得ません。そして金石範自身,自らの著書が評されることをこのように書いてます。
私は,文学関係の集まりなどでなにがしかの話をした後,話し手の本人が目の前にいるせいだろうか,聞き手から自作を褒められることがある。そしてそれは作品の内容だけではなく,当然日本語で書かれているものだから,日本語の“文体”にまで話が及び,“在日朝鮮人文学”は日本語と日本文学の発展に寄与すると思う……などと光栄なことをいわれたりする。果たしてそうであるかどうかは別にして,相手は私を褒めているのであり,それはそれなりに作者としてはありがたいことなのだ。しかしこの言葉がその善意にもかかわらず,私をかなり苦しませ,私をいたたまれない気持ちに突き落としさえするのをその人は知らない。それでも曖昧な微笑を浮かべて,「そうですか……」という程度でその場をにごして来たのがいままでの私の態度でだった。
ところが,最近はそのような場合は次のようにかなり率直に答えることにしている。
「もし,私のことばがみなさんの気持ちを害するようなことがあれば,許していただきたい。褒めてもらってありがたいが,私は率直にいって日本語や日本文学を発展させようと思って日本語で小説を書いているわけではない。……日本語はかつて朝鮮民族を抹殺するための日本の政策のもっとも強力な武器として,朝鮮語を奪った代わりのものとして働いたことばである。それはもちろん過去のことだが,その傷跡は私を含めて在日朝鮮人のなかに生きている。その意味では,同じ日本語を使いながらも日本人作家とは日本語に対する立場がちがう。ただ,私を含めて在日朝鮮人作家たちの書いた文学が,もし結果的に日本語や日本文学にプラスの作用をするのであれば,それはまた別の問題である……」
瞬間人々のあいだに奇妙な沈黙が生まれるのだが,しかしこのような私の返答はすでに自己矛盾の上にたっているようなもので,私もつい沈黙してしまう。(“在日朝鮮人文学”金石範著『「在日」の思想』講談社より)
『火山島』を著した本人の気持ちと呼応するように礼節を保つ日本人作家の言葉少なげな表現。
ここで金石範文学の評価は,がっぷり四つに組み合た力士のように動かなくなってしまった様ですらあります。
そして私の気になる問題は「『火山島』を評する言葉探し」ではなく,「なぜ我々は『火山島』を評することができないのか」に少しずつ変化していくことになるのです。
この続きは,数日後にまた書きたいと思います。